” おさなご発見 U6ひろば ”


【いつからでも新しく/羽仁 もと子ことば】

幸福になるために

『かぞくのじかん 2016年冬』

 人間として幸福になるということを望まない人は一人もいないでしょう。私たちはどうしたら幸福になれるでしょうか。

 まず第一に、私たちがそのうちに棲んでいる時間も空間も、しばらくもひちつところにとどまらずに動き流れているように、私たちの境遇もしじゅう動いているものです。幸福だ幸福だと思っているうちに不幸が来ていたり、不幸だ不幸だと思っているとその不幸のうちに、幸福の種子がかくれていたりします。幸福になりたいと思う人は、第一にこのことを知ることが大切です。

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 幸福が私たちをさがしているのだということがよく分かれば、人はみな落ちついて自分を養い、また思いきって自分のよいと信ずることをすることが出来ましょう。

(著作集第十三巻『若き姉妹に寄す』より抜粋)

 

夫婦調和論

     『かぞくのじかん 2015年春』

 夫も妻もめいめいに、わが人格の進歩発達につとめると同時に、二人の人が同じ境遇のなかに生活するあいだに、夫は妻の、妻は夫の特質をのみこみ、気分を了解し、長所や欠点を知るばかりでなく、その長所や欠点やや、癖や気分や特質に対して、いかに処するべきか、いかに取り扱うべきかの、正しくて賢い呼吸を会得し、そうしてこれを実行していくのが、結婚した二人のいつかほんとうの夫婦となるべき道を歩んでいるのでしょう。

 こういう場合にひねくれて出るのは、夫の癖だと思いながらも、ひねくれられると腹が立つ、腹が立つから勝手にしたらいいだろうという気になる。ひねくれたほうでも、一方が勝手にしろという態度であるのに、とにもかくにも一たんひねくれた以上、じきに真直になるわけにはいきません。それでますます依怙地にしてみせる。こういうことがたび重なると、苦しめられる妻の目は、もうよほど不公平になっています。

 一方は普通の人でも、一方が癖の多い人間であったり、また双方とも癖の多い同士であったりすると、大小の反目がそのたびに重なって、ときとしては夫婦というものを掩っている、大体の同情をも打ちやぶろうとするほどになることがあります。

 一方が癖を出したときに、たとえば夫が前のようにひねくれたときに、妻がもう少し心をひろくして、勝手にしたらいいだろうという気にならずにいることができたなら、そうしてただはいはいといわゆる柔順の隠家に逃げていかずに、これが夫の癖だという同情から湧いて出る賢い処置をすることができたなら、夫もまたおのずからばかばかしい癖だと思いあたるにちがいありません。そうして妻は夫の欠点を拡張して、依怙地な人と誤解するかわりに、かえってだんだんに夫のひねくれるという、その小さな欠点をもさらにさらに小さくして、ついになくするようになるかもしれません。

 ひとり欠点ばかりでなく、夫の自覚せずにいた長所は、妻の働きによって発揮され、妻の自身に知らなかった長所が、夫のおかげでひきだされる場合がたくさんあるのです。消極的に積極的に、互いに感化しあい発達しあって、ほんとうに大きく調和した夫婦になるにのは、多くの忍耐と努力がいるのでございます。しかもその仕事は、夫婦にとって実にたのしい事業なのです。

(羽仁もと子著作集第八巻『夫婦論 』より)

もう少しの忍耐

     『かぞくのじかん 2015年夏』

 私はまた子供を育ててゆくあいだに「もう少しの忍耐」ということがいろいろの場合において非常に肝要な母親の覚悟であることを感じます。たとえば用のあるときそばに来て、あれのこれのとうるさいので、別な方であそばせようとしても、どうしてもきかないときに、悪い習慣のもとになるとは思いながらも、ついがまんしかねて、お菓子をあげるからあちらにおいでといってしまったり、こわいものが来たなどとおどしつけてしまうこと、または取ってはならないものをほしがって、容易には承知しないときに、困るあまりに仕方ないとやってしまったりすることは、ときどきあることですが、私はこういうことがあるたびに、もう少し忍耐すればよかったと、いつでも後悔します。仕方がない、いっそというような気になる、その危うい場合をちょっと忍耐して気をとりなおし、どうしても子供に害のない方法でなだめなくてはならないと決心すると、もともと執着心のうすい子供のことですから、ほとんどたいがいの場合においては、まもなくこちらの目的を達することができるようでございます。おたがいにどんな場合にも、このことをわすれないようにしたいものだと思います。

(羽仁もと子著作集第十巻『家庭教育編 』上巻「母親の陥りやすき誤謬」より)

 

明窓浄几(めいそうじょうき)

     『かぞくのじかん 2013年冬』

 明窓というのは明るい埃のつかない窓、浄几というのはごみのたまっていない、きれいな机。今日は同じ明窓浄几ということを人間の内部のことで考えてもらいたいと思います。目に見えない私らの内部も、ごみやほこりがついていない『明窓浄几』でありたいと思います。どうぞよく考えて下さい。

 私らの内部の塵埃(ちりほこり)というのは、どういうものでしょうか。人を憎んだり、あの人はこれこれだと勝手な推量をして、とんでもないことを考えたりする。そういうことは、みんな塵芥(ごみ)と同じことです。私らの内部、心の中もほんとうに明窓浄几にして、今日から勉強するようにしたい、私もそうしたいと思っています。

 それにはまず学校での五時間の勉強の中で、わからない所があっても、自分にはとっくりと心持に入らなくても、先生がそういったからそれでよいと思うのは、自分の机の上にごみをためていることです。窓にもほこりをたからせていることです。それではどうしたらよいのでしょうか。その日のうちに塵埃を見つけなくてはなりません。その日のうちにあったことをすぐに考えると、ああここが分からないのだということがハッキリします。分からない所はどうしたらよいかというと、翌(あく)る日学校へ行ったら面倒でも先生に必ず聞くようにします。それは明窓浄几、あかるい窓きれいな机をつくることです。

 自分は分かりにくい人間だということをよく考えると、なお勉強する力が出て来ます。ここには出来ない人は一人もいません。私は今年一年の間、皆さんにそういう勉強をしてもらいたいと思います。今年一年だけでなく、来年もしたいというようになったら、皆さんはどんなに賢い人になるでしょう。何でも出来る人になるでしょう。このことをお正月の贈物にしたいのです。どうぞ皆さんこのお年玉を受けて下さいませ。

(羽仁もと子著作集第20巻『自由・協力・愛』より  -昭和30年)

 

 

子供のために明日のことを考える

     『かぞくのじかん 2013年春』

 家事の予定をたてる人は多くなりました。子供について、明日のことを考える必要はないでしょうか。

 家事のことは、骨を折れば折っただけ、すぐにその効能がみえ、打ち棄てておけば、また目に見えてくずれていきますが、子供の教育の方は、それほどに現金にはいきません。赤ん坊が生まれて以来骨折っている母親の日々の苦心が、ものによっては一年二年の後に、立派に現われて出るものもありましょうし、学校に入学してようやく結果の見えるものもあり、あるいはその子が成人して夫となり妻となってから、または母親となってから、時としてはその子のこの世における生涯を終わった後にはじめて現われるものもありましょう。母の子供の教育に身を入れなかった報いも、やはりあるものは子供を学校に送った時にあきらかになり、またあるものは実に多くの歳月をすぎてから事実の上に見えて来るというような気長な仕事でございます。

 日々前夜において家事の予定をするように、『明日は子供のために何をすべきか』ということを必ず考えるようにしたいとこのごろしきりに思っています。

 たとえば、このごろせわしかったので、子供のおやつもしばらく決まりきったものばかりだったから、明日は何か変ったものにしてやろうとか、あるいは長く子供をつれて外に出なかったから、買いものにいくのを幸い、こういうふうに繰りあわせて、誰と誰とをつれていこうとか、子供の学校を参観しなければならないとか、自分も手伝って子供部屋の大掃除をさせようとか、またあすは自分が出かけるならば、留守中の注意を、子供の学校に行く前に、こうこういいつけておこうとか、おさらいはどうしようとかいうことを、思い定めておくだけでも、とかく忙しさに取りまぎれて、忘れるともなく、子供をうちすてておきがちな母親にとっては、実によいことでございます。

 私どもはこうして寝る前に、子供のことについて必ずよく考えてみることは、さっそく形の上に現われることばかりでなく、知らずしらずの間にほんとうに深くわが子を了解することもでき、自分の子供に対する仕方の間違っているところなどにも心づき、ひいてわが身の有力な反省の機会ともなるであろうと思います。

(羽仁もと子著作集第十巻『家庭教育編』上巻より  -明治43年ごろ)

 

 

人生の朝の中(うち)に

     『かぞくのじかん 2008年春』

 これまでの主婦は二六時中家事にのみ没頭していました。そのことがまだ私たちの頭にも残っているものですから、あの家の奥さんは、ほんとによい家持ちだというのをきくと、どうせほうきや雑巾を友だちに、家の中にばかりいるのだろうというような気がします。けれども一概にそう思うのは私たちの頭が古いのです。家事の急所を心得て、そこに力を入れさえすれば、どんなにせわしい人でも、朝と夜とで一時間半または二時間、自分のたてた方針に従って、家人とともに家事をつとめ家務を見ることによって、きっと立派に整理していかれます。この篇のために、あらためて家事についての思いを練るあいだに、私自身もどんなに自分のこれまでの愚かさや、意志の弱さーつまり本気でなかったことを発見したでしょう。そしてそのたびごとに、きょうから改めて家を持ちたいと思ったでしょう。

 考えてみると、私どもはいつからでも新しくなることが出来ます。朝(あした)に道をきいたら、夕(ゆうべ)をまたずに実行すればよいわけです。一人一人真剣な主婦になりましょう。私たちの家は私たちの城です。一つの城をあずかっている自分たちは、楽しんで自分の城の中を立派にしましょう。まず一つの部屋をきれいにしても、すぐと目に見えるから愉快です。目に見える家事にばかり興味を持って、精神的方面の経営をおろそかにするのは、あぶない崖の上に大きな家を建てるようなものですが、目に見えることからはじめて、目に見えないことにおよぼしていくのは順序です。

(羽仁もと子著作集第九巻『家事家計篇』より  -昭和2年)

おさなごを発見せよ

   『かぞくのじかん 2008年冬』

 おさなごは、子宝の中のさらに貴(とうと)い宝です。この生きた宝物を新しい心でながめていると、あらゆる喜びとあらゆる望みが、つぎつぎとその中に発見されて、じっとしてはいられない気になります。

 

 両親や周囲の人びとが、赤ん坊自身にさずかっているみずから生きる力に対して、敬虔(けいけん)な信頼の思いをもっていることから、自然に落ち着いた気持ちになって、深い愛情と強い理性と現在最高の知識をもって赤ん坊に接するならば、かれらはたやすくその柔らかい生命にそのよい力をうけるものです。子供の教育の一番尊い立場はただそこにあると思います。

 この神秘ともいい得るところの、動(ゆる)ぎなき教育の立場をもつことなしに、どんな方法を講じても、それは詰め込みばかりになってしまいます。学校教育ばかりでなく、幼児教育にもどんなに多くこの詰め込み教育が行われているでしょう。

 どうすれば子供たちが真面目に育つか、その真面目な人格を基礎として、さらにその中に自由自在に目のきく働きのある頭脳(あたま)が出来てゆくか、縦にも横にも強くはたらく実行力が生まれてくるか。

 それはただ、子供自身がその生命の中に、自分の生命を護(まも)り育てるために、なくてはならない強い賢い力をさずかっているものであることを確信して、赤ん坊の泣き方にも幼児のまわらぬ口にそのおさない思いを語るときにも、それらによって、ほんとうに彼を知ることが第一です。あらゆる教育の工夫は皆そこから出てきます。われわれの幼児の教育も養育もこの趣意によって一貫されていることを忘れないようにしましょう。

(羽仁もと子著作集第十八巻『教育三十年』より  -昭和13年)